被造物対創造者

第三章

増加対減少(第三部)

 

「あなたは、ご自分のすべての御名よりまさって、あなたのみことばを大いなるものにされたからです。」詩篇第138

 

これは非常に深い声明です。 神の御名は、すべての名前よりまさる名前です(ピリピ人への手紙第29節)。 そして、神は、私たちに、ご自分はすべての名前の最も偉大なものよりまさるご自分のみことばを大いなるものにする、と明らかに言っておられます。 それが神のみことばをどれ程大いなるもの、また重要なものするのかを真剣に暝想してください。 詩篇1382節では、どのような「みことば」がここに引き合いに出されていますか? 私は、それが神の霊感を受けた聖書、公認英訳聖書(KJV1611年版のすべての神のみことばを引き合いに出していると信じています。

ご自分の似姿に人間を創造してすぐに、神は、アダムとエバに、ご自分の聖書を構成するみことばの2,3を与えられました。神は彼らに1つの命令を与えられました。 「しかし善悪の知識の木から、あなたは食べてはならない。」(創世記第2章17節) 神は、ご自分の大いなる御名より以上にそれらのみことばを大いなるものにするほうを選ばれました。 あなたがそれを考え、それによって、神ご自身はご自分のみことば、聖書、決して廃れない神の永遠の真理を、どれ程崇高に認めておられるかを気づくようにと私は祈ります。神がなさると同様に高く私たちすべてが神のみことばを認めるように、神が助けてくださいますように。

 

「天のお父さま、あなたは、どれ程崇高に、ご自分のみことばである聖書を大いなるものにされたかを、どうぞ私に示してください。また、あなたがなさると同様にあなたのみことばを高く尊敬して持ちますように私を助けてください。私は以前に一度もそのようにしたことがないので、聖書に敬意を表すように私を助けてください。この事を他の人たちすべてのためにも祈ります。 アーメン。」

 

私がこの本の最初の二章で「上昇すること」に対して書いたものを読む時、できることなら、金持ちになるとか、または有名になるとか、強力な人になるためには何でもやる人々について、私が話していたと結論すること簡単です。 しかし、我らの創造主に対するこのような罪に満ちた、反逆的な「上昇」は、それよりもずっと多くを伴います。 それは、聖書全体にわたって神が私たちに要求しておられることが何であれ、すべて故意に拒絶する事を含みます。 自分の救い主としてキリストを故意に拒絶するすべての人々は、私たちに遣わされた救い主を信じるようにという神の命令に背いて自分を神よりも上に設定します。キリストを拒絶する大多数の人々は、非常に高く上昇する目標すら持っていません。彼らは 罪を悔い改めて、キリストを信じる代わりに、楽しみ続けることを選ぶわずかの罪に穢れた楽しみを持つに過ぎません。彼らは、自分に反対する家族を単に喜ばすために、キリストを拒絶するのかもしれません。故意に神に背く動機がたとえどんなに低くても、それは人を神よりも高く「上昇」させるのです。たとえそれが何であっても、神、救い主、および神の聖書の指示を拒絶するだけで、あなたが楽しみのための自分の規則によって生きるために、あなた自身が神になるなら、神よりも上に上昇しています。

クリスチャンは、神が聖書の中で行なうように命じておられることに何でも、故意に背く時には、そうすることによって、私たちは神よりも高く自分を「上昇」させています。 それはとても高く「上昇する」ことであり、非常に反逆的で、罪に穢れたことです。 それは神のことばを拒絶する行為であり、私たち自身の卑しい存在の下にそれを引きおろし、それを足の下で踏みつけて、神がご自身の大いなる御名より以上に大いなるものにされたその永遠のみことばよりもさらに高く自分を立てることなのです。私は、神が私たち各々に、それは、行なうとは何と恐ろしいことであるか、と全く気づかせてくださるように祈ります。それに対する神の怒りが何と大きいものであるかを私たちが十分に気づきますように。また、私たちが、その理由により恐れおののいて真に神に仕えますように。神が私たちに、自分の目で、自分の人生で、神のみ言葉をあがめ、いつもそれを非常に高く考えることを助けてくださいますように。これは大いなる栄光を私たちの創造主に与えることなのです。

 

「天のお父さま、どうぞ、私の人生であなたのみことばを大いにあがめますように私を助けてください。それより以上に私の意見と欲望を置かないように私を助けてください。 あなたの非常に大いなるみことばの下に私を真実にへりくだらせ、それに全くゆだね、あなたの助けでそれにいつも従うように私を助けてください。私は、これをすべての他の人々のために祈ります。アーメン。」

 

ルシファーが、「私は至高者のようになろう、」と宣言した時、彼は、神、偽の神、偶像になりました。彼は誰に神でしたか?彼は自分自身に神になりました。 彼は、自分の神として唯一の神を「自己」と取り替えて、自分の神として自分を創造してくださった主を拒絶しました。それは偶像崇拝の始めです。被造物が、罪に穢れた偶像崇拝で拝むことを選ぶ最初の偶像の神は、自分自身の自己です。 それが、ちょうど、ルシファーがしたことです。 それは、ちょうど、エバがしたことでもあります。

「あなたたちは神々のようになります。」と、誘惑者はエバに正直に言いました。まだ完全な状態なうちに天使と人間にできる選択が二つあります。(1)定められたようにあなたの創造者をあなたの神にし続けること。(2)あなたの「自己」を自分の神にすると決めること。つまりそれは、あなたの神として創造者を拒絶する罪に穢れた、反逆行為です。真の創造者である神と偽の自己の神が、被造物の心に、両方とも一緒に支配できるわけがありません。

自分の神として自分自身を拝むことを選んだ後に、人間は、すべて自己を喜ばすために、数えられない程の偶像を作って、拝むことをすばやく学びます。彼は、すぐ、多くの偶像にとりこにされて、没頭してしまうので、奴隷の状態にしている鎖を壊すことは、たといそうしたいと望むようになったとしても、難しいと気づくのです。

アダムとエバは、完全な状態から落ちたので、その子孫はすべて、自分の創造者に反逆し、堕落して、罪に穢れた被造物として誕生します。彼らは、すでにその心の王座についた「自己」を持って誕生するのです。私達は、ほとんどどの子供も、どれ程「利己的」であるかを観察することによって、すぐに見ることができます。できる限り高く「上昇する」ことは多くの人間の主要な目標です。 人は上昇することに成功すると、そのとき彼の周囲の人々は、賞賛して、彼の上り詰めた状態に見るためにすばやくやって来て、彼のようでありたいと願うようになります。彼と彼の上昇した状態を「拝む」ために来る人たちも何人かいます。その点で、彼は、他の人たちが偶像を拝む罪を犯す原因になるのです。それゆえ、他の人々が偶像崇拝の罪を犯す原因とならないために、減少することを望むことの私たちの責任は重大です。 私たちは、減少することを助けてくださいと、私たちの創造者に真剣に、必死になって祈るべきです。「私は減少しなければなりません。」

 

「天のお父さま、私が上昇して、偉大になることに成功するならば、他の人たちが私を「拝む」原因を私が起こす可能性に完全に気づかせてください。他の人たちが偶像崇拝の罪を犯す原因となる罪から私を守ってください。真に減少したいと願うようにどうぞ私を助け、私の創造主なる神に喜んでいただける場にへりくだるように私を助けてください。すべての他のクリスチャンのためにも祈ります。アーメン。」

 

人々が上昇した人間を拝むときの専心夢中で、狂乱した熱心は信じられないほどです。 彼らがあるロック・コンサートで狂気じみていくのを見てください。大きい球技か、またはスポーツのイベントが始まる前に駐車場で数日間、彼らが待つのを見てください。 全試合の間、スタジアムか、または闘技場は、上り詰めた人を興奮して拝む群衆の発狂したわめき声で脈打ち、震えます。この罪に穢れた偶像崇拝の熱狂的な熱心は、一般に、クリスチャンが真の神を拝むときの熱心をはるかに超えています。そして、ファンの騒々しい群集にはたぶん、多くのクリスチャンが含まれているかもしれません。

上り詰めた人間を拝む事を愛するクリスチャンたちが神に心のある部分を捧げる事で戦うのを見てください。(米国で)1970年の秋の日曜日の朝、女性教師は、私が出席していた壮年日曜学校の授業に入ってきました。その当時、この先生の息子はたいへん強力であった大学フットボールチームの選手をしていました。その前日、彼女は競技場に座って、息子のチームが勝利するように応援していました。それが彼女にそのような「高揚」を与えたので、今日の日曜の朝もまだそれに酔いしれていました。息子のフットボールチームの偉大さを自分の思いから払拭して、神の偉大さに思いを入れて聖書から私たちに教えることを難しくしていたのです。

彼女は初め、私たちの前に座って、文字通り頭を振って、何と熱心にフットボールに心を奪われてしまったかその自分の驚きについて話し、フットボールの季節が終わって、このような非常に興奮した時期が終わるとうれしいと言ったのです。その息子とフットボールチームの高く上昇した地位への興奮はほとんど耐えることができないもので、実際に私たちに聖書を教えるには役に立たなくしてしまいました。何とひどい、罪に穢れた偶像崇拝だろうか。

どのように、上昇した人間を拝む偶像崇拝が、大胆に教会に入ったかを見てください。 人々は、教会に来ている間も自分たちの人間の偶像について興奮して話します。クリスチャンたちは、テレビ、ビデオ、またそのようなものを、教会の建物に持って来て、神の家でスポーツと他の上昇した人間のなす業を見る(礼拝)るのです。しばしば、教会の牧師の事務所と書斎は、スポーツのチームの名前を表示する多くの項目によって輝いています。私は、通りで一度根本主義の牧師にお会いしたことがあります。その方のジャケットと帽子、時計は彼の偶像、プロのフットボールチームを表示していました。それでいてその牧師は聖書も持たず、自分をクリスチャンとして同定するものも表示していませんでした。私はそれを見て悲しくなるのです。なぜなら私たちの創造者を悲しくさせるのが偶像崇拝だからです。ああ、私たちは、栄光に輝く創造者について以上に、上昇した人間について何と興奮することでしょうか。何という恥でしょうか。あなたは上昇する目標を達成して偉大になる時、間違いなく、他の人々が上昇した人間を拝むこの罪を犯させる原因になるのです。

上昇した人間は、他の人々が彼の上昇した地位を貪るので、貪欲の罪も犯させます。彼は、また、人々が彼の偉大さに嫉妬するので、彼らに不敬虔な嫉妬の罪を犯させるのです。彼は、彼らが彼の偉大さを妬むので、彼らに妬みの罪を犯させます。神が、多く罪はこの上昇しようとする罪から出てくる事だと分かるように私たちの目を開いてくださいますように。

 

「天のお父さま、どうぞ、リチャード兄弟がここに書いたことの真実をどうぞ私に教えてください。もし私が高く上昇するならば、どのように多くの他の人たちに偶像崇拝の罪を犯させ、それによって、その地位を「拝」ませるかをどうぞ私に示してください。それこそが罪であると、この事を認めるように、どうぞ私を助けてください。またこの罪を犯さないようにどうぞ助けてください。もし上昇することによって、私が他の人たちに貪欲と、不敬虔な嫉妬、妬みの罪を犯させることが本当ならば、他の人たちがそのような罪を犯す原因とならないようように、どうぞ私を教え、助けてください。この事をすべての他のクリスチャンたちのためにも祈ります。アーメン。」

 

 

「ひれ伏して、私を拝め。」

ああ、何と私たちは、上昇して偉大になり、評判になって、他の人間に拝まれる事を愛する者でしょうか。何とそれは私たちの罪に穢れた自尊心に供給することでしょうか。悪魔が荒野で主イエス・キリストを誘惑した時には、悪魔は、強攻に、イエスに自分を拝ませようとしました。「次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄光とを見せて、言った、『もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものをすべてあなたに与えよう。』」(マタイによる福音書第4章8,9節)もし彼が自分の創造者に1回だけでも拝ませることができるならば、ルシファーはいつまでも非常に満足だったでしょう。ルシファーは、ただ、イエスを一回自分にひれ伏して、拝ませるために、この世で所有していたすべての王国を譲ると申し出ました。その堕落したケルビムは礼拝を欲しがるからです。

罪に落ちた人間もまた、礼拝を欲しがります。 非常に大きいのは、私たちが一番偉大であると他の人たちに思わせたいという願望です。私たちは、皆の心が、私たちの名前を聞いて、私たちの写真を見て、あるいは、私たちの顔を見て、心変わりをして欲しいと思っています。創造主だけのものである礼拝を狂ったように欲しがるとは、私たちは何と罪に穢れた者でしょうか。

 

「天のお父さま、私はその罪を犯していますか? 私は、人々がどのような程度であっても私を拝んでほしいと望んでいますか?もしそうなら、どうぞ、その罪を私にはっきりと現してください。そして、それを真に悔い改めて、それを完全に捨てるように私を助けてください。この事をすべての他のクリスチャンのためにも祈ります。 アーメン。」

 

私たちが他の人たちによって礼拝を受けたいと切望する時、自分に高く期待する「崇拝者ら」を満足させるために、何という巨大な圧力が私たちの上におかれることでしょうか。もしこの人たちが私たちに失望するならば、私たちは、彼らが私たちを捨てる事をどんなにか恐れることでしょうか。生中継の開始直前に緊張から吐いた芸能人の弁明を聞いてください。同様の事をしたスポーツ選手(また多くの他の種類の人間の「神々」)について読んでください。脆弱な人間は、可能な最も高い学習高原を獲得し、維持しようとして、どんなプレッシャーの下にいるのでしょうか。私は、スピーチをした後、または、クラスで討論をした後、自分の部屋に戻った大学の日々を思い出します。私の肌着とシャツの両方の脇の下は汗によってずぶ濡れになったものでした。また、クラスの前で、私が、自分の偉大さを教授と仲間の学生に印象付けようとして立つと、疑いなく私の血圧は大変上がりました。

人間の「神々・偶像たち」は、そのような圧力の下で「上昇した」状態のままでいようとします。そうでないと、彼らの崇拝者らは見捨てて、もっと偉大な神を拝むために探しに行きます。または 前より悪くなると、彼らの崇拝者らは 「アイドル(偶像)の」できばえに失望するとすぐに、彼らを殺すのです。それが明確に起こったことがあります。 私は、サッカー場に駆け込んで、シュートを防げことができなくて、チームが試合に負ける原因になった時、そのチームのゴールキーパーを殺したファンのニュースの記事を思い出します。そのような殺人は過去の歴史を通してまれではありませんでした。そのようにどんなに破壊的であるかが上り詰めようとする罪なのです。あなたの崇拝者らを喜ばすことに失敗しなさい、そうすれば、彼らは文字通りあなたを殺しますから。誰でも殺人者らによって拝まれたいと望むことがどれ程狂気じみていることでしょうか。私たちすべてが減少したいと望みますように、拝まれたいと望まないように、真に礼拝を受けるに相応しいお方である、私たちの創造主に礼拝をしたいと望みますように。「私は減少しなければなりません。」

 

「天のお父さま、他の人間を拝むことがどんなにか破壊的であるかを見ますように、どうぞ、私の目を開いて、はっきりとした霊のビジョンを与えてください。どうぞ、他の人々を拝むことから私を救い、また、他の人たちによって拝まれたいと願うことからも私を救ってください。この事をすべての他のクリスチャンのためにも祈ります。 アーメン。」

 

人間を崇拝する者たちはまた、その群集が闘技場内でか、または闘技場に入ろうとして押し寄せるように発狂した殺到の中でお互いに殺し合います。上り詰めた人間の神もまた、自分のアイスホッケーパックが観覧席に飛んで行く、あるいは自分のレーシングカーが観覧席に飛び込んで行く、あるいは曲乗飛行する飛行機が崇拝者の群集の中に墜落するなどのように、自分の崇拝者らを殺します。この「上昇する」ことの恐ろしい罪は、人生にどれ程恐ろしく破壊的なものでしょうか。神が私たちすべてを助けてくださり、それがはっきりと見えて、真剣になって減少したいと望みますように。

スポーツのチームが大選手権試合に勝つ時に、チームの偉大さへのファンの喜びが非常に爆発するのでよく暴動を起こして、所有物を破壊し、人々を傷つける犯罪を犯すことがあります。(読者の皆さん、あなたはこれまで、そのような戦勝祝賀会で殺された人を誰かご存知ですか? もしそうなら、どうぞ、その説明を私にお送りください。) これらの破壊的な行為は神と人間に対する罪です。それらは人間の正しい法律に対する犯罪でもあります。 また、彼らの上り詰めたチームのファンの熱心で、罪に穢れた、偶像崇拝者の礼拝が、これらの破壊的で、致命的な罪であり、犯罪の原因なのです。

クリスチャンの父親であるあなたは、自分の息子がそのような罪と犯罪の原因になることをどれほど望んでおられるかを、ちょっと立ち止まって考えてみてください。あなたの息子が、チームを大選手権大会の勝利に導くスポーツ選手のスターになることをどれほど望んでおられるかを考えてください。そのような勝利は、恐らくほとんどは、所有物を破壊し肉体上に傷害を起こすこれらの犯罪を起こさせ易くするものです。 被造物を崇拝する者たちは、あなたの息子の偉大さに「酔って」、そのような破壊的な荒廃で破滅します この二つは分離できません。 そして、あなたがたクリスチャンの父親の非常に多くは、まさに、自分の息子がやがて大きくなり、スポーツ選手になって、そのような勝利を勝ち取ることができるのを夢に見ます。神があなた方の目を開いて、そのような上り詰めることがどんなに破壊的なものであるかを見させてくださいますように。

 

「神である主よ、上昇してしまった人間を拝むことは何という罪に穢れた偶像崇拝の行為であるかを、すべて、私に気づかせてください。そこからどんな大きな破壊が明確に生じるかをどうぞ、私に完全に気づかせてください。神に忠実に憎悪を持ってその罪と破壊を憎み、そのどの部分にも属する願いも持たないように私を助けてください。私の子孫たちの誰一人にもそのような破壊を引き起こす願いを持たないように私を助けてください。この事をすべて他のクリスチャンのためにも祈ります。アーメン。」

 

世界中にわたって、多くの上昇した被造物たちは、舞台で、また、特にデザインされ、その上昇した行為を適切に適応させて、それをできるだけ誇張させるために建築された競技場で、彼らの上り詰めた行為を上演します。善悪の多くの知識をむさぼった多くの年が経て、人間は、崇拝者の群衆を引き付ける彼の多くの様々な上昇した行為のために、まぶしい性能競技場を建てるハイテク能力を得ました。

善悪の知識はまた、世界中の人々が見るために、上昇した演技者の正確なイメージを作り出すカメラを作る能力を与えました。それらの最初正確なイメージが、「静止」画でした。しかしすぐ、世界中にその上昇した行為を見て、いく倍も被造物を拝む者を増やさせることができる映画が出ました。また、同じカメラはまた、民衆が、拝んで感情を表し、見るために自分の正確なイメージを自由に作り出すことができるようにしました。

 ある程度まで、ほとんどすべての人々は、他のために「ひれ伏して拝む」願望を隠しています。「ひれ伏して拝みなさい。」キリストに従う者である私たちは、それが恐ろしい罪である事を認めるべきです。私たちはそれを悔い改めて、それを捨て、私たちの創造者の喜ばれる場所に低くへりくだるべきです。「私は減少しなけばなりません。」

 

「天のお父さま、他の人が私をひれ伏して拝む事を望む罪からどうぞ私を救ってください。すべての人たちが自分たちの創造者を拝み、そして、創造者お一人だけを拝むように真に願うように私を助けてください。この事をすべて他の人たちのためにも祈ります。アーメン。」

 

 

 「かしら」

「しかし、私はあなたがたに次のことを知ってほしい。すべての男のかしらはキリスト、女のかしらは男、そしてキリストのかしらは神である。」 (第一コリント人への手紙第11章13節)男性は上り詰めることに自分の心を集中すると、たちまち、自分の「かしら」で権威としてのキリストを廃止します。女性が上昇することに自分の心を集中すると、たちまち、自分の「かしら」で権威としての男性を廃止し、すばやく男の上の権威を奪うに至ります。

「女にすべての服従をもって黙って学ばせなさい。しかし、私は、女が教えることも、男を支配する権威を奪うことも許さない。むしろ、黙っていなさい。」(第一テモテへの手紙第2章11,12節)「上り詰めた」女はすぐに、 教会で話すことによって、教会で男たちを教えることによって、また教会で男たちに説教することによって、この命令を踏みにじるようになります。彼女は、現世の仕事に就きます。そこで教え、指示し、男たちを仕切って、男たちを統治する権威と権力に就くのです。クリスチャンの妻たちが自ら、私に証言してくださったのですが、彼女たちが男たちを統治する地位に置かせてくれた現世の職業を働き始めた時、それからまもなく、彼女たちは聖書がしなさいと命じるように自分の夫に服従することが非常に難しくなったのです。

本当に、被造物である人間が上昇することに自分を集中する時、自分の創造者と創造者の聖書より以上に自分を上昇させることになります。従って、創造者と聖書を廃止します。彼は自分のかしらと自分の自己中心的な考えと欲望が自分自身の聖書、自分の存在と行動への主要な導き手となると取り決めます。これらの上昇ししまった被造物のすべては何と恐ろしい光景でしょうか。ヘリくだらなければならない私たちの必要はどんなに大きいことでしょうか。「私は減少しなければなりません。」

サタンは、自分が女性たちと女子たちを男性の権威だけでなく、創造主の権威をも奪わせることによって、神の創造の上にどんなに巨大な破壊をもたらすことができるかを良く知っています。サタンが完全な被造物である人間に自分たちの創造者に逆らって昇れ、と誘惑した時、彼はアダムを誘惑しなかったのです。女を誘惑しました。彼は、もし女が男を統治する権威を奪うことさえするならば、人類の多くが道を誤る事を知っています。それゆえに、彼はそれを成し遂げるために最大限の努力をします。また彼は、非常に多くの女性たちが自分のかしらである男を廃止したいと望むので、すばらしい成功を遭わせます。

キリストのからだの多くは神が定められた、「女のかしらは男です。」を支持する事をやめてしまいました。一人の開放主義のクリスチャン女性は次のように私に話しました(私に説教しました)。女のかしらは男という意味は男が女の保護者ということです、と。神は確かに男は女を守ると定められ他のであって、女が警察官、兵士になるようにとは定められませんでした。しかし、保護は「かしら」の主要な役割ではありません。権威が「かしら」の主要な役割です。軍隊本部の第一の機能は兵士たちに命令することです、兵士を保護することではありません。本社の第一の機能は従業員たちに命令を与えることです、従業員を保護することではありません。同様に、女のかしらとして男の第一の役割は権威の役割です。(神はまた自分の妻を愛せと夫たちに命じておられます。またそれは、夫がその命令にしたがことができない時、非常に深刻な失敗です。)

20世紀の間に、キリストのからだは、神が定められたこと、「女のかしらは男です。」より以上に急速に上昇してしまいました。約2001年に戻りますが、私は、ラジオでジェームズドブソンさんの話を聴いていました。彼は、母親が家庭にいることは、その子供を育てるために、どれほど重要なことか、と話していました。「もしある女性に子供がいなければ、彼女に、彼女が望んでいることをさせてください。 もし彼女が望むならば、彼女を(国家の)大統領にならせてください。しかし、もし子供がいるならば、彼女は子供を育てるために家庭にいる必要があります。」数百万人の聴取者に、そう話すことによって、ドブソンさんは、女性に(国家の大統領になることによって)国家の万人を統治する権威を奪っても良いとの承認を与えたわけです。多くのクリスチャンが、女は男を統治する権威を奪ってはならないと命じておられる神に反対するようになってしまったことは非常に悲しむべきことです。非常に多くの人々はできるだけ最大に高く上昇することにただ狂ったように夢中になっています。ずいぶん前ですが、人々は自分たちを創造者とこの方のみことばより上に置きました。「だから、今や彼らがしようと想像したことから、何も彼らを抑止されるものはない。」上昇せよ。上昇せよ。上昇せよ!ああどんなにか私たちはすべてへりくだらなければならないでしょうか。「私は減少しなければなりません。」

 

 

『他国の衣服を着る』

上昇する事を望む被造物である人間は,ある程度まで、注目を得ること、また「お気に入り」と見られたいという通常罪に穢れた動機で,しばしば自分の身体を「飾ること」によってその欲望を明示します。歴史をすべて遡ると、自分の創造者である本当の神を知らない異邦人、異教種族と国家の多くは、大々的に自分の身体を飾ることで知られていました。あなたはその真実をご存知です。人々が自分の身体を飾るために、世界中で、また何世紀にも渡って用いてきた方法と項目の広大な配列を見るために、現在と過去の多くの写真を見ることができます。それゆえに、私はここであなたに長い説明をする必要がありません。上昇することに心を注いだ「クリスチャン」はますます多く自分を飾ろうとします。1980年代に遡りますが、私は、多くのクリスチャンが自分を飾る方法を見て、自分にこう言いました。彼らは点滅ライトのないクリスマスツリーのように見える。」いつまでも点滅ライトは追加しないだろうと思っていましたが、数年後、時々点滅するライトの就いた服を着ているクリスチャンを見て、私は衝撃を受けました。「私を見てください!」

私たちの身体の「飾り」のほとんど(またはことによるとすべて)がご自身の似姿に私たちをされた神を不快にしていると、私は信じています。永久の入墨、ピアス、カッティング、首を伸ばす、耳たぶを伸ばす、耳たぶに大きな穴を作る等の「飾り」のあるものは、恐ろしく粗野で、私たちの身体の健康に有害です。それらは私たちの創造主の御目に罪に穢れた忌むべき事だと、私は信じます。他の人々に「魅力」でありたいとの欲望から生じる、自分の身体にそのような恐ろしい事をしようと望む事は、「上昇し」たいという罪に穢れた欲望から生じると、私は信じます。

 あなたがたは死者のために、自分の肉体にどんな傷もつけてはならない。また自分にどんな入墨もしてはならない。わたしは主である。」(レビ記第1928節)「彼らは・・・自分の肉体にどんな傷もつけてはならない。」(第215節)あなたは、そのような命令はイスラエルの国家に与えられた厳密に儀式律法だったと主張できますが、どのような人間でもレビ記のここで禁じられたこれ等の事をすることは、私たちの創造主の怒りを引き起こしていると私は信じます。また新約聖書においても、神は自分たちを飾っているクリスチャンたちのためにいくつかの指針をはっきり与えておられます。「同じように女もまた、慎みと貞淑をもって、控えめな衣服で自分を飾りなさい。編んだ髪や、金や、真珠や、高価な衣装をもってではなく、むしろ、良い行ないをもって〔自分を飾るのは〕(神に忠実であると公言する女にふさわしいことです。)」(第一テモテへの手紙第29,10節)聖書は、編んだ髪、金、真珠、また高価な衣装は神に忠実であると公言する女性にふさわしくないと、私たちにはっきり語っています。

私たちの創造者は、必要な身体衛生に注意し、私たちの身体に慎んで衣服を着せ、きちんと身支度を私たちにさせます。その事柄に関連する神の指針と命令を知るために聖書を徹底的に学んでください。また、それらに関する特別な導きのためにあなたの創造者に祈ってください。もし私たちが創造者を喜ばすことができるとするならば、適切な服装は必要なことです。ほとんどの人々は他のために魅力的に見せたい願望を持っています。そのような願望は、他によって「崇拝され」たいと罪に穢れた願望にならなければ、それほど「上り詰める」必要はありません。ですから、私たちは皆その分野で非常に慎重でなければなりません。私たちが、過度の注意を引き付けない質素な態度で身を包むことは、私たちの創造者に栄光を表します。質素な衣類は神に喜んでいただくときに、恐ろしく重要です。けちで、擦り切れた、身体にぴったり合う、透けて見える、または、私たちの身体を誇示する不謹慎な衣類を着ることは罪に穢れたものです。不謹慎自身は罪に穢れていて、その背後の動機はたいてい他に自分の身体を拝んで欲しいか罪に穢れた性の欲望によってそれを見て欲しい事です。

けばけばしい、奇怪な、下品な、注意を引く、パンクロック(および他の多く)のような「型破り」の衣服と装飾のほとんどの流行は、ゼパニヤ第18節において神が罰することについて話す「他国の衣服」です。 「主の犠牲の日に起こる。わたしは王子たち、また王の子供たち、またおかしなの衣服を着るすべての者を罰する。」(ゼパニヤ第18節)おかしなの衣服は、あなたの創造者に栄光を現しません。神は、それを身に着るものたちを罰すると約束しています。ですから、それを避けてください。

自然自体さえ、男が長い髪をしていたら、男の恥であると、あなたがたに教えているではないか。しかし、女が長い髪をしていたら、それは女の光栄である。というのは、女の髪は覆いのために女に与えられているからである。」(第一コリント人への手紙第11章14;15節)長い髪をしている男性たちと短い髪をしている女性たちは、創造者が彼らの髪について定められたこと以上に罪に穢れて「上り詰め」ました。どうか私たちがそれをしないように神が助けてくださいますように。

 

「天のお父さま、あなたを喜ばす方法で自分の身体をいつも飾るように、どうぞ私を助けてください。どんな衣服を着るべきか私に教えてください。一風変わった衣服を着ないように私を救ってください。

あなたを不快にさせるいかなる方法でも自分の身体を変えないように私を助けてください。どうぞ、他の人々が、賞賛と崇拝をもって私の身体を見ようと望む空虚な罪から私を救ってください。どのように私は自分の髪をのばすべきかを教えてください。私個人の飾りと衣服をあなたに非常に喜んでいただけるものにしてくださるように私を助けてください。この事をすべて他の人たちのためにも祈ります。アーメン。」

 

 

『そうする事はすべて、あなたの神、主に忌むべき事である。』

神は、誰でも異性のものである衣服を着ることは神に忌むべきことである、と明確に私たちにお語りになられます。「女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。そうする事はすべて、あなたの神、主に忌むべき事である。」

(申命記第22章5)

あなたの創造者に忌むべき物を着ないために、最初に、異性のものである衣服の品目を知らなければなりません。それを知らなくては、

あなたの着るもので神を喜ばすことができません。男物のズボンとシャツ。女物のドレスとスカート、ブラウス。「リチャード兄弟、そのような明細を、どこで見つけましたか?」 私の頭の中、神の知恵にすっかり包みこまれていると、私は固く信じています。もしその明細が好きでなければ、審判の日にあなたの創造者の御前で、あなたは自分の明細を作り、それを着て、着飾って立ってください。しかし、もしあなたが神のみ前で忌むべき者としてそこに立つならば、激しく恥を受けた者になります。 その短い明細に加えて、男物のすべては男性らしくあるべきで、女物のすべては女性らしくあるべきです。すなわち、下着、靴、ブーツ、ジャケット、コート、キャップ、帽子、頭覆い等、すべての衣服。上の私の短いリストは主に、西の世界(ヨーロッパとアメリカ大陸)に属します。衣服習慣は東の世界(アジア)とアフリカの多くで多少違います。 それでも、通常各々性基準の衣服の間に明確な区別があります。世界のどこでも誰ひとり絶対異性の衣服を着るべきではありません。それは、彼らの創造者に忌むべき

ものだからです。

以前に、私は、男のかしらはキリスト、女のかしらは男について話しました。 (第一コリント人への手紙第113節)自分のかしらとしてのキリストを廃止する人たちは、「偉大な」存在のように見えるようにできるだけ派手に着ることが度々あります。派手で、閃光のような、高価な衣服に過度の強調をすることは、すぐに、うぬぼれと贅沢の罪になります。男たちはまた、慎みなく着る罪を犯すのです。派手で、閃光のような、高価な衣服に過度の強調をすることは、すぐさま、うぬぼれと贅沢の罪になります。男たちはまた、慎みなく着る罪を犯すのです。しかし、そのような罪に穢れた方法で着る人々のほとんどは、男物の衣服を着続けるのです。しかし、男が自分たちの頭であることを廃止する女たちは、男物の衣服を着るほうに向かうことが度々あります。これが忌むべきことなのです。そして、この世界は現在、クリスチャンであると告白する多くの、高く「上り詰めた」女性たちでいっぱいです。彼女らは、きつく体にぴったりした半ズボンをはいて、「男っぽく」短く刈った髪で気取って歩き回るのです。 何という忌むべき光景でしょうか!多くの人は確実にへりくだる必要があります。 「私は減少しなければなりません。」

 クリスチャンの歴史を勉強して、多くを学びなさい。1900年ごろに遡ってください。この時代に、女性のスカートとドレスのへりが、それらの足首の上まで「上がり」始めたのです。猥褻だとして大胆に公然と非難した多くの主に忠実な説教者たちの説教を捜し出してください。 「一般」のクリスチャンの大多数は、また救われていない人々さえも、同じ意見を強く表明したのです。しかし、ずいぶん発達しましたね。現在、もしあなたが、神は、短いスカートと、愚かさを表すようなドレスを着ている女性に満足しておられると宣言し、また、半ズボンを穿いている女性に満足しておられると宣言するなら、その時、あなたは、そのようなことは忌むべき事であり、猥褻さの忌むべき事であり罪であると明白に宣言した多数の過去の聖徒たち(それに非聖徒たちさえ)を異端者として公然と非難します。私は、あなたがこの生涯が終わってこの人たちに会う時非常に恥を受けるだろうと考えます。

あなたの存在が始まった時、あなたは薄い空気の中から出現したのではなかったことをあなたに、思い出させさせてください。 あなたの先祖たちはアダムとエバの時代までいるのです。あなたの祖先のすべては、これまで生きていたと同じほど、彼らは現在も、生きていますし、常に生きているのです。 もし現在私が説教している服装のこれらの旧式な標準が好きではないならば、その時には、事実について考えてください。たぶん、1900年当時おとなであった祖先が、私以上にこの標準をもっと支持したという事実について考えてください。そこで、もし私の信念のために私を中傷しようとしているならば、進めて、そのように慎んで、主に忠実に着たのゆえに、あなたの祖先を中傷してください。 その時に、永遠において祖先と出会う時、あなたがどのように感じるか見てください。

出エジプト記第32章は、黄金の子牛を作ったアーロンと、それを拝んだイスラエルの子どもたちについて語っています。現代の女性は、自分たちの「子牛」を太陽か皮なめしの灯火に変えて、それを黄金色変え、それから一般大衆にあの「黄金の子牛」を見せるのです。また、その子牛は、確かに、多くの罪に穢れた偶像崇拝者によって拝まれています。 私は、身体障害者か恵まれていない人が自分のズボンをくるぶしまで着ているのを少しも感じません。したがって、なぜあなた方、クリスチャンの女性たちは、自分の衣服のへりがくるぶしまで来ることに反対をすべきなのでしょうか?「リチャード兄弟、それは私たちがあの主に忠実で、慎み深い標準より上に『上昇して』しまったからです。」アーメン、姉妹よ!

昔の人々がどんなに清い生活を送ったかを学ぶために、人間の歴史を勉強しなさい・・・・。私は1860年後半に設定された物語の本を一冊読みました。その中で、一人の女性が、ドレスのへりに泥がつかないようにと、町のぬかった通りを横切って渡ろうとして、自分のドレスをほんの少しだけ持ち上げ始めました。しかし男たちがそこにいたので、彼女は、決して、男たちに自分の足首を凝視させない、と言って、ドレスを元のままにして、そのへりを泥だらけにさせました。そして、たぶん、その足首は中厚手黒ストッキングの内側に隠されていました。多くの売春婦の心を持ったおてんば娘が男たちに渇望するようにと、誇らしげに自分の足首の上を非常に多く現す時には、このごろでは足首をぼんやり眺めたがっている男たちを想像してください。

過ぎ去りし日に、売春婦は町の板敷き散歩道のベンチに座って、自分たちは売春婦で仕事を探していますと通行人に広告するために、自分たちの足首までの長さのドレスを脛骨の中くらいまで上に引いたものでした。 そして、普通、彼女らが、そうした時には、肉体でなく、ストッキングだけを現しました。 今では、教会に出席する女性のほとんどは、きちんと着こなして、神の教会堂に座ってさえいません。

現代のおてんば娘は、1900年頃に戻ったどのようなきちんとした女性に絶対に必要であった服装の多くのきちんとした標準を捨ててしまいました。 その当時、ほとんどどのきちんとした女性もドレス、スカート、あるいは正面の開いたブラウスを着ていなかったのです。私は、ボタン、スナップ、ファスナー、ジッパー、またはそのようなものによって正面が「閉じられた」ものを意味しています。 その当時、そのような「開き」は通常それらの慎み深い衣服の後ろで保持されていました(また時にはスカートの横側 )。しかしどれだけ多くのおてんば娘が現在、そのすべてがその身体の前面のすぐ下の開き(またはファスナー)のついた、ちょうど男物のシャツのようなシャツや、ブラウス、スカート、ドレスや半ズボンでさえ、を着ているかを見てください。忌むべきことで不謹慎です!

私は、十分に年をとっていたので、1950年代と1960年代に多くの女性が忌むべき半ズボンのために自分たちのドレスとスカートを見捨てたことに気がつきました。主に忠実な説教者たちが、その忌むべきことに反対を宣言したので、あのおてんば娘とその支援者たちは、『前面の代わりに横側でジッパーを下げるので、このスラックスは、男物の衣服ではありません。もし私どものスラックスが前面でジッパーを下げるならば、その時、それは男物の衣服です。』と言って報復したのです。しかし、彼女らの創造者が指定された衣服を永遠に着る代わりに、今日まだ生きておられるその女性たちの今着ている半ズボンのほとんどが前面でジッパーを下げます。いったい何が起こりましたか?なぜ変化がありましたか? 答え: 彼らは、ただより高く『上昇し』続けて、もっと罪に穢れた状態になり続けるのです。前面でボタンを留めて、ボタンとボタンとの間、特に女性たちの胸が上がる所で、大きく開く傾向があるシャツを着る女性たち。

『見てください!』と言う閃光のような、人目を引くファスナーの付いた隙間が多くボタンが留められて、ちょうど前面を下へと開くような忌むべき,きついジーンズと派手な半ズボンを着た女性たち。何と、この女性たちは、高く上り詰め、深く罪に穢れた、悪魔を喜ばし、創造者を辱める,忌むべき者たちでしょうか!

 

「天のお父さま、どうぞ、あなたに忌むべきである衣服を着ないように、私を守ってください。私の性に合った適切な衣服が何であるかを私に正確に教えて、あなたを敬うに相応しい衣服をいつも着るように私を助けてください。この事をすべて他の人たちのためにも祈ります。アーメン。」

 

 

                「売春婦の服装」

何年か前(1980年代?)、私は、米国のある都市の通りで、ひとりの女性を売春婦の容疑で逮捕した警察官についてのニュースの記事を読みました。後に、この女性は売春婦ではないことが判明しました。実は、この女性は伝道師の妻だったのです。では、どうしてこの警察官は、彼女が売春婦であるとの疑いをかけたのでしょうか。彼女がそのような身なりをしていたと彼は言いました。この伝道師の妻は売春婦の服装を公然と着て、外出しました。その服装が非常に売春婦のように見えたので、そうであるとして彼女は逮捕されたのです。「すると、見よ、売春婦の服装をした心にたくらみのある女が彼を出迎えた。」(箴言第7章10節)

 このごろでは、「クリスチャン」女性たちは、「何を着ようとたいしたことではありません。神は心を見られるのですから。」と、傲慢に宣言します。確かに神は心を見られますさらに、神は売春婦の身なりをする女性の内側の売春婦の心を見られるのです。私のこの本の初版を読んだ一人の救霊者で、根本主義クリスチャン女性は、多くの強調を「心」の問題の代わりに外見に置き過ぎたと言って、私を強く非難しました。この方が言ったことは重要な問題です。アーメン、姉妹よ! 心の問題は確かに重要な問題です。それどころかさらに外見は心の問題だからですみだらで、慎みのない、罪に穢れた外見は、みだらで、慎みのない、罪に穢れた心がそのまま目に見える状態に現されたものなのです。この外見によって、人は悔い改めて、その問題において正さなければならない、と示されるのです。

適切な衣服は重要です 神のみことばは、神が罰しようとしている「おかしい衣服」があると私たちにはっきりと語っています。 神のみことばはまた、「売春婦の服装」があるとも私たちに語っています。 私たちの創造者の目に、罪に穢れて忌むべき多くの衣服と装飾があります。それゆえに、私たちは皆それを避けるべきです。 

 

「天のお父さま、どうぞ、罪の穢れのない方法で自分自身を装い、飾るように私を助けてください。どうぞ、私を導き、適切な事について明らかな教えを私に与えてください。さらに、私の飾りと衣服を身に着けて、あなたを喜ばしたいといつも思う心を私の中に創造してください。この事をすべて他の人たちのためにも祈ります。アーメン。」

 

 

『らゆる宝石があなたの覆いであった。』

 神は、私たち人間が「宝石」を身につけることを全く禁じておられると私は思いませんが、それについては良く分かりません。(私はできる限り最も広い意味で「宝石」という言葉を使っています。)自分たちは結婚していると誰もに示すために結婚指輪を身に着けている人々に対して私は何も話しません。もし人々が、「宝石」などで自分の身体を『飾る』ことを選ぶならば、彼らは、自分たちの創造主の怒りを引き起こさないために、それをつけるにあたって非常に保守的であり、ほんのわずかの量を使うだけであるべきだと私は信じます。個人的には、うぬぼれというよりもむしろ、私には宝石を身につける何の理由も考えられないので、何の「宝石」も身に着けない方を選びました。 もしあなたが「宝石」を身に着けない方を選んだならば、それが創造者を非常に喜ばすと私は信じますので、私はそのことであなたを心から賞賛します。 もし人が、本当に、「減少し」(私たちはすべてそう望むべきですが)たいと望むならば、私は、なぜ彼か彼女が「宝石」を着けて、または人々が自分の身体を「飾る」他の多くの方法のどれをも着けて、自分の身体を飾るのかを理解できません。

「あなたは神の園であるエデンにいた。あらゆる宝石があなたの覆いであった。ルビー、トパーズ、およびダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、および碧玉、サファイヤ、エメラルド、およびざくろ石、そして金。あなたのタンバリンとあなたの管楽器とも手腕で作られた作品は、あなたが創造された日にあなたの中で備えられた。」(エゼキエル書第2813節)私は、神が、ルシファーの美に追加するために、彼の完全な状態の時に、ルシファーにこの「宝石」のすべてを創造されたと結論します。そのように言うとルシファーはたくさんの「宝石」宝石、および金で「飾られて」(覆われて)いたと聞こえます。 それが、神がどのようにルシファーを創造することをお選びになられたかですが神はそのような方法では人間を明確に創造なさらなかったのです。また、私は、ルシファーが、「宝石」、化粧、塗料、および多くの他の物で、彼らの身体を飾るために罪に落ちた人間をそそのかす者であることは、非常にありそうなことだと信じます。私がそうであると信じる理由は、本当の神を知らない、世界中の異教徒、異教の種族が可能な限り極度に、自分たちの身体を「飾る」事は、共通しているからです。

サタンは、神が創造し、天の被造物のためにお定めになられた物のにせ物を私たちに提供することが好きです。そして、私たちの創造者は私たち人間がそれらのものを「使う」事を決して定められなかったけれども、サタンは「それらを使う」(それを単純にする)ようにと、私たちをそそのかすことが好きです。それゆえに、あなたは、そのようなものついてあなたの創造者のお心とそのご意志を知るために、あなたの創造者に近くいつも歩くべきです。人々が、自分の身体を「飾ら」なければならないという願望は、私たちの創造者から来ると私は信じません。私は、サタンが、人々に自分の身体を「飾りなさい」とそそのかすと信じます。私はまた、人々が自分たちの無益で、罪に穢れた誇りから、また、人々が神に喜んでいただく以上に高く上昇してしまったので、そうするのだと信じます。人々が自分たちの身体を「飾る」他の理由をあなたはご存知でしょうか???

 

「天のお父さま、 どうぞ、あなたに近く歩みますように、また、あなたが、人間である私のためにどのような事を定めてくださったかを正確に知りますように、私を助けてください。サタンの偽装の、あるいは、あなたの喜びとならないどのような方法でも、私の身体を飾るためにサタンの誘惑の食い物にならないように、私を助けてください。この事をすべて他の人たちのためにも祈ります。アーメン。」

 

数年前、キリストにある霊性の深い姉妹が、もう化粧をしないようにと、神さまが導いてくださいましたと、私に話してくれました。そして、化粧を止めた時、一つの事が、何という遜らせる効果を自分の上にもたらしたのかを見て、姉妹は深く驚嘆したのです。アーメン!人間という被造物のへりくだりは、私たちの創造者をたいへん喜ばすものです。ですから、キリストにある私の兄弟姉妹のみなさん、あなた方はもっとへりくだった者でありたいと思われますか?それでは、もっとへりくだるための良い方法はこれです。「出かける前の化粧」を適用することを止めてください。また、あなたが自分の身体にする、すべての他の「飾る事」を止めてください。それから、そのことがどんなにかあなたをへりくだらせるかを見て、驚嘆してください。礼拝の間に泣くことはだいたい消えました。 (しかし、映画、スポーツ、イベント、コンサート、および高く「上昇した」人間による多くの他の演技を見る人々によって今まで通りよく行なわれます。) 聖霊が、教会で人々を感涙させる時、しばしば、女性は、自分の化粧をだいなしにするのを避けるために、啜り泣きを抑えることがあります空の空。すべては空である。

 

 

『神に忠実であることを公言する女性にふさわしく』

時の経過と共に、自分たちの創造者を喜ばすように自分たちを着飾る男女はなおさら少なくなります。衣服の大きな変化を見るために歴史を勉強しなさい。昔の人々の写真を見てください。最近、私は、1923年のアメリカの込み合っている浜辺で写したある男性と彼の妻の写真を見ました。この男性はスーツを着ていました。白いシャツ、ネクタイ、スーツコートと、全部揃っていました。ご婦人は、昔私たちが言ったものですが、“日曜日に身に着ける一番良い服”を着ていました。そして、人々はそのように身に着けて、浜辺の毛布の上に座っていたものです。その浜辺にいる人々はみんな同様に(1923年)衣服を着ていました。浜辺では当時の方法と、「衣服を着ていない。」このごろの人々の方法とを比較してください。

この頃では、もしあなたが慎ましやかに、また、おしとやかに着ているならば、あなたのまわりの高く「上昇した」罪人たちの多くに軽蔑されそうです。 そのようなことは、あなたを本当にくじくことができるほど強烈な戦いになります。 それゆえに、私は、あなたの創造者が私の心においてくださいました、激励の二言三言をあなたに話して、今最善を尽くしたいのです。神の最も豊かな祝福が、創造者を喜ばす方法で、自分を着飾ることによって創造者を敬い、栄光を現すあなたの上にありますように。この人生を通しても、そうすることによって、あなたは、自分が神に与える大いなる栄光の広さに気づくことはないでしょう。しかし、あなたは、審判の日に神と会う時、その事を十分に、かつ、完全に理解するようになります。そしてその時、あなたは、自分の周りにいる非常に多く人々が自分を嘲笑し、服装と装飾をこの世の罪に穢れた基準に従わせようとした時、その戦いで、あなたは、自分が堅く立っていた事を非常に喜ぶ者となるのです。非常に多くの人々が、クリスチャンたちでさえも、衣服と装飾を身に着けているあなたを、不当に遇して、あなたを困らせる強力な力によって、とても容易に、あなたは威嚇されていると感じるのです。現在、このことについて正しく行なうようにと、多くの励ましを与えてくれる説教壇は全くと言っていい程ほとんどありません。1つの理由は、今日、説教者の多くが、罪に穢れた、連続メロドラマ中毒の、ゆがめられた「男のような」散髪をして、および、出かける前の化粧、宝石や他の「装飾物」を身に付けて、忌むべき半ズボンを着た「クリスチャン」母親たちによって育てられた事にあります。それゆえに、その「クリスチャン」母親たちは、不正をすることによって自分たちの子供たちに霊の盲(めくら)をもたらしたのです。クリスチャン両親の皆さん、注意して聞いてください!どのような領域でも不正を行なってください。そうすれば、あなたが刈り取る一つの明確な実は、その領域においてあなたの子供たちの中に霊の盲(めくら)が存在しますから。子供たちはあなたの「不正」が「正しい」と認める者になるのですから。

また、説教者たちが、説教壇に立って自分たちの会衆を見ると、会衆は四六時中ハリウッド見るのでハリウッドのように見えるわけですが、その時は、説教者たちは、会衆の罪に穢れた身なりに対して宣言する勇気すら持てなくなることがしばしばあるのです。説教者たちは、自分たちがしなさい、と神が定められたように、善を賞讃し、悪を罪に定める事を恐れているのです。それゆえに、説教者たちは、あなたが適切に自分を着飾っていてもほとんど賞賛さえしないのです。ですから、どうぞ、あなたの主に近く生活して、主の中でご自分を励ましてください。あなたの尊い主イエス・キリストは決してあなたを失望させません。かえって、たくさんの勇気を持ってあなたを祝福してくださるのですから。

数年前の事でしたが、ある日曜日の朝、私は、アラバマ州のある田舎の教会の説教壇から神に忠実な服装と装飾について説教しました。その教会は、何年もの間、昔からの伝統を守った教会であったのですが、それを跳び越えて「上昇」し、「進歩」してからだいぶ立っていました。その牧師と彼の妻は、正面から2番目と3番目の座席に座って、私が説教している間、私を笑っていました。夫妻がそのような事をしたことで私は多少驚きましましたが、私をあざ笑って笑う人々のいる所で、私は公然と何百時間も説教してきましたので、そのような事は私には何も新しいことではなかったのです。そのような訳で、彼らを無視して、神が私の心に置いてくださった事を説教し続けました。その後で、牧師と彼の家族が私を日曜日の夕食と交わりのために、家に招いてくださいました。そして、一緒に良い時間を過ごしました。

そして、あの後しばらく、彼の会衆は牧師にとても親切な行ないを捧げ尽くしました。会衆は彼に最良の葬儀してあげました。教会の隣の墓地の大勢の昔からの伝統を守ったクリスチャンたちの間に安息するようにと、彼を埋葬しました。あの墓地で彼らと共に、あるいは、天で彼らと共に横たわって、彼がどれ程「くつろいで」いたかは、私は分かりません。また、私は、まだ50歳にも満たなかった、彼の死が、私の説教に対して彼が笑ったことと関係があったかどうかは知りませんが、一つの事を私は確実に知っています。永遠に変わらない昔からの神を宣言する者、また、永遠に変わらない神の昔からの標準を宣言する者を笑うことに対して、私は死ぬほどおびえてしまうのです。ですから、あなたの創造者があなたにする事を熱望されるように、あなたがたが自分に衣服を身につけ、飾るあなたがたを、私は賞讃します。

 

 『天のお父さま、私が、過ちをして私の子供の中に霊の盲目を生み出すことに、いつも、気づくように、どうぞ、私を助けてください。どうぞ、祖することから私を救ってください。あなたの御目に正しい事をいつも努力して行ない、それによって、子供たちが従って来るように完全な模範にしてくださるように私を助けてください。この事をすべて他の人たちのためにも祈ります。どうぞ、服装についてのあなたの聖なる標準について宣言し、また、守る人たちをあざ笑って、嘲笑しないように、私に十分な分別を与えてください。アーメン。』

 

グレッチェン姉妹が私に書いてくださいました手紙の一部を引用させてください。

 

『あなたは私たちをそのように励ましてくださいました。ドレスを着る事を決断したことによる、私たちが直面しなければならなかったあらゆる拒絶にもかかわらず、私たちはそれを自由と考えます。他の人たち(特に家族)は、それを律法一点張りと考えます。それは私たちには全く重荷にはなりません。神が私たちを在るべきものに創られたものになることは喜びです!ハレルヤ!かぶり物はさらに多くの問題を引き起こすようなので、問題にしませんが、親戚の中にはその事を非常に気にしている人たちがいます。そうであるのに、彼らの子供たちの中には頭髪を染めている者もいるので、私は普通ではない者と考えられています。特別ですからね、私たちは確かに。私が躓きの石ではなく、主に捧げ切った僕になりますようにと、私はただ祈ります。』

 

非常にきちんと着こなすクリスチャンたちは、自分たちの服装からは何も問題にしていないのに、周りの多くの人々が自分から先走ってそれを問題にしてしまうのだと気づきます。彼らがそうする理由は、神があなた方の神に忠実な衣服と装飾を用いて、彼らの冒涜するような、みだらで、下品な、罪の穢れでいっぱいの、恥かしいほどの服装について、彼らの善悪感を鋭く突き刺すからです。

彼らは何とあわてるほど誰かが正しい事をすることで打ち負かそうとすることは驚くべきことではありませんか?あなたが正しく着こなすことは、彼らの間違いについて自責の善悪感を鋭く突き刺すまさにその一つの事であるのです。多くの「クリスチャンたち」が聖書の中にある神の明らかな戒めについて、面と向かって私に嘘を言ったように、彼らは、それらについて容易く偽ることができます。あるいは、自分と何の関係のない時代遅れの本へと、ただ聖書を追いやることができます。彼らにとっては説教壇の説教者を、またはこの「潮目」の本にある私のことばを無視することは少し困難で、神に忠実なクリスチャンが、彼らの衣服と装飾は罪に穢れたものだと、彼らに個人的に話すのを無視することはなお困難です。しかし、彼らの創造者は、神に忠実な衣服と装飾の良い模範を無視する事を彼らにとって非常に困難な事にされたのです。神は特別な意図を持って、神に忠実な模範を、彼らに合う服を与えるものにして、そのように設定し、また、あなたについてのあらゆる種類の間違った話し言葉を気取って朗々と述べさせられます。

彼らは、悶着を引き起こす人などのことであなたを絶え間なく不当に告発します。なぜなら、あなたが彼らのプライドと自責の善悪感を害するからです。ほとんどの場合、彼らのほとんどは、あなたへの激しい敵意の本当の理由について盲目の状態にされて、自分たちの服装が正しく、あなたの敬虔な服装は悪いと単純に思ってしまいます。たとえあなたが何をしても、彼らに、あなたに、正しくすることを思いとどまらせてはなりませんし、また、あなたを変えさせようとして、彼らがあなたに向かってののしり、あまりに激しく非難するからといって、哀れだと思わないでください。あなたの神に忠実な服装と装飾で、あなたは、ご自分の創造者に大いに栄光を現しておられるのですから。また、あなたはまた、正しく行なったために、あなたへの創造者の報酬として、あなたを待っている、天にあるあなたの故郷に、天使たちが絶え間なく多くの永遠の、天国の宝物を運んでくれるので、何人かの天使を忙しいままにしておられるのですから。このよう事をすべて言うことによって、私は、ちょうど私がグレッチェン姉妹と彼女の家族の所へ行ったことがあるかのように、あなたがたを激励するために、私の最善を行なおうとしています。ぜひとも、正しく衣服を着こなしてください。 これまでそのようにすることが重要であったように、今もなお同じように重要です。

『私は、自分が躓きの石にならないように祈ります。』グレッチェン姉妹のその言ったことに私は注目しました。なぜなら、邪悪な者たちは、神に忠実であることによって、敬虔な人を、悶着を引き起こす人だと言って、いつも告発することが好きなのです。あらゆる時代を通しても、そのような嘘が彼らの好きな策略でした。「アハブがエリヤを見たとき、アハブは彼に言った。『おまえがイスラエルを煩わす者か。』」(第一列王記第1817節)もちろん、邪悪なアハブとイゼベルがイスラエルを煩わした者たちでした。しかし、アハブは、エリヤを、悶着を引き起こす者にしようとすることによって、嘘を言います。邪悪な者たちは、悔い改めようともしないで、邪悪に心を注ぐのですが、特色として、その事を行ないます。あの牧師は、私が彼の教壇から神に忠実であることを説教したとき、私を笑った方ですが、この方は、誰か他の人による説教が神に忠実であること、また、どれ程量が多かろうと、彼が、生きている限り(そんなに長くなかったわけですが)、彼の考えを変えようとする事には、反対することをずっと以前に、すでに決心していたのでそうしたのです。神に忠実な人々は、悪魔と、悪に屈服した者たちのためにごたごたを起こしますが、それは、神が、救われた人たちをこの地上で行なうために残しておられる主要な事の一つです。悪を行なう者たちは、あなたが正しく行なうことを止めさせるために、あなたが悶着を引き起こす者であること、また、躓きの石であることを、あなたに納得させようとします。ぜひとも、彼らを無視して、固く立ってください。正しい事をしてください!

私は、グレッチェン姉妹をもっと激励しようとして答えました。 私は、私たちが誰かを過度につまずかせないことが非常に重要であることに言及しました。それから、私たちは、第一ペテロの手紙第278節の中で言及されている私たちの救い主の重要な特徴を、いつも、心に留めておく必要がある事を、私は指摘しました。したがって、信じるあなたがたには尊い方ですが、不従順な者たちにとっては、「家を建てる者たちが却下した石、それが隅のかしらとされる。また、不従順で、みことばに躓く者たちには、躓きの石、妨げの岩。またそうなるように、彼らは定められていたのです。」私たちの創造者は、不従順な者たちには、躓きの石、また、妨げの岩です。彼らは、自分たちの破滅への途中で創造者に躓くのです。もしあなたの創造者に従順ならば、そのときには、あなたも、彼らには、躓きの固まりとちょうど同じくらいに大きくなります。それによって驚かないでください。不従順な人たちがあなたの従順さに躓くからといって、あなたは間違っていると考えないでください。それは自然に起こるのであって、あなたが間違っている訳ではありません。不従順な人たちが間違っているのです。ですから、ただ正しい事をし続けてください!

1800年に罪に穢れた服装をして、公然と出現したならば、現代のそのような人々の最悪の事態は、刑務所に投げ入れられたことだったでしょう。これよりみだらさの程度が少なかったとしても、公然と他の人々によって、非常に強く口頭で攻撃を受けて、恥かしくて走っていって、身を隠していたことでしょう。しかし、今は この倒錯的な、終わりの世代で、情勢は全く逆転しています。 不従順な人々はライオンと同様に大胆で、ゆえに、従順な人々を、従順であることについて臆病で、あとずさりさせるために最善を尽くします。彼らに応じてはなりません。ただ、あなたの創造者に従い、喜ばし続けてください。

グレッチェン姉妹は、自分と彼女の娘ついて話して、次のように言いました。『神が私たちをあるように女として創られたままにいることは喜びです!ハレルヤ!』私は、それに対して確実に『アーメン』と言います。私もまた、神が私を今あるように創造された男であることに喜びます。ですから、私は、どのような時でも、どのような場合でも、ドレスとか、スカート、ブラウスとか、どのような女性の衣服を身につけようというどのような欲望も決して持っていません。申命記第225節は、異性のものを着ることは冒涜であると、私たちに、はっきりと語っています。従って、私は、教会が、牧師さえ、女性のように服を着て、参加し、それらを身に着ける時(特にその時)にさえ、女性のように服を着た男性たちとの「女性なしの結婚式」と、「女性なしの美人コンテスト」は神への冒涜であると信じます。

忌まわしい半ズボン、Tシャツ、シャツ、「短い髪型」散髪、などを着た『クリスチャン』女性の大多数は、神が彼女たちを、あるように創造されたことを喜ぶ事を長く止めてきました。彼らは、自分たちの『最初の地所。』を超えて大変高く上昇してしまいました。それで、彼らは、神がお喜びになる仕方で、衣服を着こなす人の女性と出会うと、罪に穢れた心ですぐ非常に怒って、多くの激しいことばで、あなたがた、神に忠実な女性たちと戦います。あなたが悶着を引き起こす者である、と見えさせようとする彼らの策略に加えて、彼らはまた、はっきりと言う代わりに物を暗示することが好きです。悪魔が、彼らに、あなたはおかしい、あなたが着る方法は間違っていると暗示するために、多くのずるく、巧妙な方法を教えるからです。それに騙されてはなりません。彼らが、あなたの服装について、どのような否定的な論評をして、それについてあなたに質問をしても、もしあなたが勇気を持っておられるならば、彼らに次のように宣言することは、たいへん神に栄光を現すことになるのです。『私は、これが私の創造者にたいへん喜んでいただけると信じるので、このように着ているのですよ。』

さらに、もし勇気をお持ちでしたら、神が、裁きの日に、彼らに会わせるために記録をしておられるのですから、彼らにたいへん率直な質問をして、彼らから率直な回答をいただけるかどうかを見るのも良いでしょう。『あなたに不快だという私の服装についてですが、いったい何が問題なのでしょうか。』『あら、本当ですか。それに、それがどうしてあなたに不快なのでしょうか。』『そうしますと、あなたは、人がどのように着ようとかまわないとお思いですって?私たちがどのように着るかは神に関係することだと、私は信じていますので、それについては、あなたと私は大きく違うわけですね。』経験から、彼らは、明白な質問に対して明白な回答は殆んどできないと、私は分かります。しかし、神は、裁きの日に、彼らに見せるために、彼らがたとえどんなに捕らえにくく、不十分な回答を返しても、記録されておられるのです。もし私たちが、その人々に私たちの立場を明白に述べるならば、彼らが裁かれる時に、神はまた、彼らにそのことを思い出させてくださいます。どうか、神が、私たちを助けてくださり、正しく行なうことに多くの喜びとしますように。

私は、たいへん長く、服装と装飾について話しましたが、よい理由があっての事でした。適切な服装と装飾は、私たちの創造者に反逆しないために非常に重要なことです『上昇』の罪を愛する人々は、神に忠実な衣服と装飾を超越して、すばやく『上昇』します。不正に着る『クリスチャン』の話し言葉を聞いて、彼らは、『神に忠実であることを公言する』事も、あるいは、彼らが減少する必要について話す事も、ほとんどか、あるいは、決してしないことに気づいてください。『私は減少しなければなりません。

男性も女性も両方とも、適切に自分を着飾る事は必要なことです。しかし、私たちの創造者は、非常な美しさを備えた、男性の助け手を創造されました。このことは彼女の夫のためにだけあるものです。どのように女性の美が、大衆がぼんやり眺めるための物として、世界中に、露出され、食い物にされているかを、あなたはよく知っておられます。それは忌まわしい恥であり、罪です。それゆえに、私は、あなた方クリスチャン姉妹の皆さんが、「神に忠実であると公言する女性にふさわしく」(第一テモテへの手紙第2章10節)仕方で、いつもご自分を着飾るように祈ります。私は、あなた方皆さんにそのようになさる事をお勧めします。そうすれば、創造者は、そうすることのゆえに、あなた方の側に確かにおられて、あなた方を励まし、あなた方を祝福してくださいます。

 神を喜ばす方法で装う男性は、そうすることによって、あまり『迫害される』傾向がありません。一方、女性は、そうすることによって強く攻撃されます。 このための二つの主要な理由があります。 第一に、みだらな男性は、非常に女性に欲情したがっているので、自分たちの快楽のため、すべての女性に、身体を見せて欲しいと思っています。それゆえ、彼らは、応じない者を軽蔑するのです。第二に、従う多くの女性たちは、有罪と宣告されて、あるいは、応じない者たちによって、怒られます。従って、彼らに、多くのののしりを浴びせかけるのです。それをすべて超越して立ち上がって、正しく行なうと決めてください。私は、そうするようにあなた方に大いに勧めます。

 

 「天のお父さま、私は、このことに関して、あなたから多くの助けが要ります。どうぞ私に教えてください。どのような衣服と装飾があなたに喜んで頂けるのかを、どうぞ、正確に私に教えてください。それから、その問題で私自身を着飾るための勇気を、どうぞ、私に与えてください。また、従わない人々があざけり、笑い、馬鹿にし、あなたに従う事で悶着を引起す者であるという事で私を告発する時、怯まない勇気を私にお与えください。私は他のすべての人たちのためにも祈ります。彼らが衣服と装飾を身に着けるとき、あなたを敬いますように。アーメン。」

 

 

『尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。』

「上昇」しようと努力する複数の人がいる時はいつでも、競争が良くない兆しを見せます。私は、競争は本来悪であると信じます。私は、不服従が被造物側にあるまで、宇宙全体にわたって、神の完全な創造のすべての中に競争は全くなかったと信じます。確かに、ルシファーが神に反逆する以前に、天国に競争は全くありませんでした。また、完全なエデンの園においては、明らかに、すべての動物、また、男性と女性は、植物だけを食べる事を定められました。従って、どの動物も、別の動物または人のための昼食になることと対比されるように、生き残るために競争する必要はありませんでした。すべての被造物は、神が彼らのために創造された完全な調和の中に生きていたので、その最初の地所にいる限り、競争はなかったのです。完全な調和は、どのような種類の競争でも、神の被造物のどの間にも、ある時はいつでも、絶対に存在しないものです。『尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。』(ローマ人への手紙第1210節)は、競争の雰囲気の中においては、たいへん難しいことです。競争は、まさに私たちのように上昇の罪に心を集中する多くの人々の上を、私たちが上昇する手段です。 私は、それが本来悪であること、また、ほとんどの競争が、私たちの創造者の怒りを引き起こしている事を信じています。

 

 

『天のお父さま、どうぞ、現在あなたの創造の中で続いています多くの競争に関して、あなたの真実を私に教えてください。それはすべて本来から悪ですか?もしそうでしたら、どうぞ、それを私に明らかにして、競争についてあなたのご意志をいつも行うように私を助けてください。私はこの事をすべての他のクリスチャンたちのためにも祈ります。アーメン。』

 

被造物である人間の多くは「上昇」に集中している時はいつでも、競争はすばやく、最前線に来ます。あなたは、それが人間の努力のあらゆる分野で、何という致命的役割を演じるものかをすぐに観察することができます。 競技成績と試験等級は、勝者は誰で、最高に上昇したのは誰かを決定するために正確に保持されているからです。多くの厳密な規則とガイドラインは、競争相手が直接優位に立たない多くのイベントで勝者を決める審判者らの主催者を制御しています。票の数は、どの政治家が最も良く競争したかを明らかにします。儲けた金額は、どの実業化が最も良く競争したかを示すのです。また、人間が「上昇」に自分自身を集中する多くの常に増加する地域全体にわたって、詳細な基準は、決定され、そして、それから、まさに、某地域で最高に上昇したことを、全世界に誇らしげに宣言されるために明らかに設定されます。賞品、報酬、賞、賞杯、飾り額、お金、奨学金、またはそのようなものは、最高に競争した勝者に授与されます。 その時、世界中の多くの人々は、その「上昇した」人を拝むことによって、偶像崇拝の罪を犯すのです。

人々の欲望と「上昇する」努力は、時の経過に従って、力を組み込むようです。 それはもちろん競争の増加を引き起こします。 「上昇」しようと固く心に決めている人は各々、自分自身と自分のゴールを、自分たちの「上昇」のゴールに達成しようと固く決めている人の周りにいる多くの他の人間の神々のどれよりも、重要であると考えるのです。そのようなものの見方は、人々が、他人よりも高く上昇するために、他人を倒し、踏みつけ、そして、轢()く、邪悪な「食うか食われるか」の社会を生み出します。それは、「道路憤怒」と不意に現れ続ける多くの他の新しく名付けられた「憤怒」を生み出します。競争は継続的に、時の経過に従って、より凶暴で、強烈になり、罪に穢れたものになります。この傾向は、そのすべてを終わらせるためにキリストが戻って来られるまで続くのです。それから、私たちの創造者は、ライオンを子羊と横にならせられます。そして、すべての他の競争もまた終わらせられます。それは何とすばらしい日になることでしょうか!

人々は、自分の「仕事」の多くの競争に、進んで、熱心に参加するだけではありません。単に楽しみのために続けられる競争の圧倒的な量もまた、びっくりさせるものです。競合するイベントの数と種類は、増加し、下は小さい子供に至るまで、ほとんどの年齢の人々、を含むようになっているのです。小さな子供たちは、両親、コーチ、先生、およびトレーナーによって、競合するイベントに卓越するようにと、非常に残酷に強いられています。 そして、神は、最後の審判の日に虐待者が会うように、そのような虐待のすべての詳細な説明を保持しておられるのです。

『尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。』(ローマ人への手紙第1210節)あなたが競争している相手に、それを行なうことは非常に困難なことです。私たちが競争する事を進んで選ぶ相手に関して、ルカによる福音書第631節にあるキリストの命令に従うこともまた非常に難しい事です。人にしてもらいたいと、あなたがたが望むことを、人々にもそのとおりにしなさい。』あなたが競争するために出て行く時、この2つの節をあなたの標語にして、それが『競争の霊』にする事を見てください。堕落した、罪に穢れた人は、どのような理由であっても、罪を犯すと同じ素早さで、競争する行為の中で罪を犯します。怒り、憎しみの思い、また、敵意は、直ちに不意に現れそうです。騙し、うそつき、盗み、殺し、そのようなものは、競争の中で、すぐに、自然に起こります。

私が、殺しに言及する時には、私は、縄張りを巡って戦う(競争する)時に殺すマフィア凶漢のようなものを、ただ、引き合いに出しているわけではありません。私は、すでに、一点を妨害できなくてチームの試合に負けてしまったサッカーのゴールキーパーを殺したファンたちに言及したことがあります。2001年か2002年頃ですが、ある選手の、怒った父親か、あるいは継父は、子供のホッケー(?)の試合で、彼の体力で、その小柄な男性の頭を床に繰り返し、荒っぽく打ちつけて、コーチを殺しました。(読者の皆さん、もし私がその説明について、不正確に述べているところがありましたら、どうぞ私を正して、さらに詳細な時と、場所等を、私にお送りください。ニュースでそれを聴いたのですが、その記録を残していませんでした。そのような訳ですので、どうぞ私を助けてください。)競争がそのような殺人の主要な一つの原因でした。私はそれが本来悪であることを完全に確信しています。私はそれを本来罪に穢れたと呼んでいません。罪と悪との間には違いがあります。殆んどすべての競争は、私たちが「上昇」の罪を愛することから起こります。私たちはその罪を悔い改めて、捨てて、むしろ減少する事を強く望まなければなりません。「私は減少しなければなりません。」

クリスチャンが「上昇」を愛するようになればなるほど、競争への愛もまた増加します。このようにして、競争するイベントは教会の中に「成長します。」あらゆる種類の競争する方法は、聖書を調べ、歌い、音楽楽器を演奏するなどのために、考案されます。教会の内部のクラスとグループは出席キャンペーンに競争します。教会はまた、競争するリクリエーションとスポーツに深く巻き込まれていくのです。

もしあなたが、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。というはっきりと示された聖書の真理を見たいと思われるならば、それでは、ただ、子供たちによって競技されている「教会」球技に出席してください。クリスチャンの観客、両親が、自分たちのプライド、怒り、罪に穢れた憎しみでいっぱいの言葉と、彼らの心は『上昇』に非常に心を注いで、その競技を勝ち取ると固く決心しているので、心の中に満ちている、多くのそのような汚れた衣を明示するので良く見てください。もしそれがフットボール試合であるなら、『踏んでしまえ!』か、あるいは、『もっと激しく当たれ!』が、おそらく、彼らのクリスチャン両親が、他のチームの子供たちにするようにと自分の子供たちに求めている最善の事についてなのでしょう。彼らは、他人を押しのけて頂点までのし上がるために、幼児期から自分の子供たちを訓練するために、自分たちの極限を行なっています。競争を取り壊して、踏みつけ、上昇しなさい!上昇!上昇!

私はそのような「教会」球技に出席したことがあります。そして、私は、上に描写した事を個人的に見ました。それは何と不名誉をもたらすものであったことでしょうか! 『尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。』誰ひとりそれをしていませんでした。人にしてもらいたいと、あなたがたが望むことを、人々にもそのとおりにしなさい。 いいえ それも誰ひとりしていなかったのです。出席していたほとんどすべてのクリスチャンたちは、神の聖書からの神聖なご命令に罪に穢れて服従しないでいましたので、神の聖なる裁きの日に聖なる憤りで満ちた聖なる神に直接お会いするのです。「あなたの神に会う準備をしなさい。」

 

「天のお父さま、リチャード兄弟が競争について書いてこられた、これらの事に関して、ちょうど、あなたがそれを見られるように私もそれを見ますようにどうぞ助けてください。これらの事について私の創造者なる神の心を、どうぞ私に教えてください。そして、競争についてあなたの完全なご意志を行なうように、どうぞ、私を助けてください。私は、すべての他の人々のためにも祈ります。どれ程私たちは皆、どちらが罪に穢れたもので、あなたの怒りを引き起こすものであるかという完全な理解を必要とすることでしょうか。それゆえ、このことに関するあなたの知恵を私たちに与えてください。遜(へりくだ)って祈ります。アーメン。」

 

 

これは神の声だ、人間の声ではない

自分を「上昇」の罪に委ねる人々は、結果として思いにおいて厳しく錯乱されるようです。これは、「上昇」の時の本来のものであるような「刈り取り」です。このようなたくさんの良い例を見るために歴史を勉強してください。ネブカデネザル王は自分を何と偉大な神であるかと思った事に関する彼の考えを読んでください。『王はこう言っていた。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」(ダニエル記第430節)どうも彼は自分を存在するものの中で最も偉大な存在者であると考えているようです。

ヒットラーの陸軍大将と陸軍元帥が、自分たちは一定の場所で占領ことができないので、退却しなければならないということを、彼らが非常に熱心に彼に納得させようとした時、彼らの言うことを聞こうとしないほど、ヒットラーが早期の軍隊の勝利にあまりに酔いしれたのを見るために歴史を勉強しなさい。他の時と他の場所で; 彼らは、どのように、自分たちが、彼の計画された攻勢の攻撃に成功することができないかを彼にはっきりと言ったものです。しかし、ヒトラーは、自分を、存在する中で最も偉大な神であると、ほとんど思って、自分と、自分の優越人種には、何も不可能なことはない、と考えるように騙したので、彼は、彼らの健全な助言に対してつんぼの耳に変わって、退却しないで占領するように、自分の軍隊に命じたか、あるいは、攻勢の攻撃を実行するように命じたものでした。その結果は、ヒットラー軍の指導者たちが、そのような気が狂った神に束縛されていたので、苦悩と苦痛の中で、多くの破壊と多くの人命を失ったのです。』

1950年代末期か、1960年代初期に(読者のみなさん、正確な日付を私にくださいませんか。)、来米したソビエト連邦独裁者フルシチョフについて読んでください。彼は中西部を旅行して、そこの広大なトウモロコシ畑からもたらされた恩恵にたいへんな印象を受けたので、彼はロシアに戻って、広大な畑に、トウモロコシを植えるようにと命じました。彼の追従者たちが、ここの気候(と土壌?)では、トウモロコシは産出しないことを彼に納得させようとしました。しかし、かつて一人の高く上昇した人は、彼は神ですから、何でも彼に不可能なことを彼に納得させようとしても不可能であると、確信しています。フルシチョフは、神として、ちょうど、ソビエト連邦のすべての人に、神は存在しないと信じて、その民に自分(フルシチョフ)の意志をするように命令するように、トウモロコシが育て、と、まさに命令しようとしているようなものです。そこで、圧迫された部下たちは、広大な面積にトウモロコシを植え付けて、それが成長の途中で全部絶えるのを見る他に選択の余地を全く持たなかった。その大きい開発事業に使われたすべてのお金と労働からは全然収穫がなかったのです。なぜなら、それは単に、一人の男が、自分は、トウモロコシが育って欲しいと思ったところに育つように命令することのできる神であると思ったに過ぎないからでした。そのようにひどく、「上昇」の罪が、あのいぼ状の多い、はげ頭の内部の心を発狂させたわけです。

簡潔さのために、私は、非常に思いを混乱させたこれらの3つの例で止めます。 歴史はそのような例でいっぱいです。 知恵を得るために、それらを勉強してください。 また、あなたは、「上昇」によって歪められたに人間の思いを研究するために歴史まで随分離れて行かなくても良いのです。あなたの周辺至る所で思いを混乱させたそのような「とるに足らないもの」を容易に見つけるかも知れません。なぜなら、多くの頭蓋骨がそれを収納するのですから。

私は、大学時代に、食費を払うために、カフェテリアで食事を給仕していた時、一人の学生が、私たちが夕食に給仕した鶏肉の断片を皿に載せて、私のところに持ってきました。彼女は、その骨の周囲の真ん中の肉の赤く、調理が不十分な部分を見える状態にして、それを骨まで開いて分けておきました。その学生は、そのような「生の」鶏肉を食べることから、かかりうる病気の名前を私に話しました。私は、肉の内側の部分が実際に生で、食べるには適さないと容易に見ることができました。私はその皿を取って、栄養士長がいる台所に戻って行き、その皿に乗ったあの鶏肉を彼女の鼻先に差し出して、学生がこれを返して、調理が不十分だといって不満を言ったと、彼女に話しました。食堂長はその皿に乗った証拠をほとんど見もしなかったのです。彼女は、神のような権威が侮辱されたという態度で、ただ私の目を見て、どのように彼女が料理人たちに鶏肉を料理するのに必要な正確な時間を指示したか、ぶつ、ぶつ、等々、等々、だから、『それが生煮えだなんてあり得ないのよ。』と、大胆に私に説明しました。 彼女はずっと前から、神を気取っていましたので、私がその下に差し出しているその血まみれの赤い証拠に彼女の高慢な鼻を見下す必要は全くありません。彼女はただ偽りを真実であると宣言しただろうし、それが彼女にとって好都合だったからです。「これは神の声だ。」(使徒の働き第1222節)

たぶん、あなたのまわりのそのような神々と毎日つきあわなければなりませんね。 そして、それがあなたの人生を、どんなに悲惨なものにすることでしょうね。しかし、たぶん、そのような神々を見つけるために、あなたの周囲にいる他の人々を見ようとして、そんなに遠くまで行く必要さえありません。 多分、ただ鏡を覗くことによってそれを見ることができます。 私たちはすべて、自分たちを、「上昇」の恐ろしく破壊的な罪から救うために、私たちの創造者に真剣に祈らなければなりません。「私は減少しなければなりません。」

 

『天のお父さま、私は、あなたが私を「上昇」のこの罪から救ってくださいますように、必死になってあなたに叫びます。どうぞ、私がこの罪に巻き込まれている私の生活のすべての領域を、私に見せてください 。それを本当に悔い改めるように私を助けてください。 そして、どうぞ、私をこの罪から救ってください。 私はこれを、すべての他の人々のためにも祈ります。 アーメン。』

 

 

『上昇する者たち』

高く上昇する事を求めて成功する人々と関連した多くの悲惨さがあります。孤独と孤立は、主要な呪いのうちの2つです。 有名か、金持ちか、または強力な(政府最高指導者たち)人々は、保安人事課から注文を取りながら、閉じ込められたドアと門の向こう側で、人生の多くを過ごします。彼らはもはや、人前だけでも、または、自分を集団で襲撃する人々なしに23の友人とのんびりと時を過ごすような、人生の多くの簡単な楽しみを楽しむことができないのです。

映画を見に行きたかった時に、劇場にあるすべての座席の切符を買わなければならなかったエルビス・プレスリーについて読んでください。なぜなら、もし彼が、映画に行く一般の群集と一緒に座席に着こうとするならば、彼らは彼を襲撃するからです。従って、もし彼が劇場に行きたいならば、その建物にあるすべての座席のために支払って、一人だけでか、または、または、連れてきた23人の友人と共にそこに座らなければならなくなるのです。何と寂しく、孤立した人生なのだろうか。それはトップまで成功する人の大多数を悩ますのです。しかし、それでも、ほとんど誰もがトップに到着したいと思います。ほとんど誰もが、上昇して、可能な限り最も偉大な神なって、人類のすべてによって拝まれたいと切望するのです。どうか、神が私たちをこの罪から救って、減少するように助けてくださいますように。「私は減少しなければなりません。」

 

 

『昇進が来ます。』

『そうだね。リチャード兄弟、もし私ができるだけ高く上昇するために完全に至るまで、あらゆる素晴らしい才能と能力を使わなかったならば、神が私を祝福してくださったそれで、私は何をすることになるのですか。』あなたの創造者があなたに生きるようにとお定めになった生き方をして、あなたの最善を行なうために、それを主に、使うことによって、あなたは、それをあなたの創造者の栄光のために使うことになっています。 『上昇』の罪を控えることは、私たちが怠惰で、私たちの生活と何の関係もないという事ではありません。私たちは、働く事を神がお定めになられたように自分の生活費を稼ぐために毎日勤勉に働くべきです。わたしは彼を私の栄光のために創造し(た)、(イザヤ書第437節)あなたの創造者が自由に使うために、この方の祭壇に、あなたのいのちと、あなたのすべての才能と能力を置いて、あなたの全存在を、創造者に明け渡すべきです。神は、この世を創造なさる遥か以前に、あなたの人生のために神聖なご計画をお定めになられました。あなたができる限り持つことのできる最良の人生は、あなたの創造者なる神に完全に明け渡すことの一つです。それは、この方があなたの人生に、その神聖なご計画を達成してくださるためです。

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。たといそうでなくても、私は生きています。もはや私ではない。しかしキリストが私の中に生きておられるのです。そして私が肉の中で生きているいのちは、私を愛し、私にご自身をお与えになった神の息子の信仰によって、私は生きているのです。』(ガラテヤ人への手紙第220節)あなたは、あなたの創造者が、あなたの主であり、救い主イエスキリストと共に、十字架の上で、自分を磔(はりつけ)するために、あなたの創造者に自分をすっかり明け渡さなければなりません。あなたは、人生から自分ができるすべての面白いこと、名声、また、富を得るために可能な限り高く上昇しようとする、あなたの利己的な願望を完全に破壊し、あなたの罪に穢れた肉を十字架につけて、殺すために、あなたの生活の中で、十字架を自由に働かせなければなりません。あなたは、自分が持つあらゆる利己的な夢、目標、また、野心を破壊するために、自分の人生の中で、十字架の働きに自由な支配を持たせなければなりません。あなたは、自分の人生の中で、完全な働きを十字架にさせるためにそれにゆだねなければなりません。そして、そのときにあなたは神の完全な意志を行なうためにだけ存在するのです。その時、あなたは、神があなたのために定められた所へと、減少しようと強く望むようになります。また、主イエス・キリストがあなたの人生の中で増加することを非常に強く望むようになるのです。 十字架の働きは苦痛に満ちたものですが、そこから来る祝福された命は、すべての苦痛を受ける価値があるものです。キリストはあなたにご自身をお与えになりました。今度はお返しに、あなたが同じ事をして、主にあなた自身を与えなければなりません。

 

『天のお父さま、私は、あなたが私をあなたの栄光のため、また、あなたの喜びのための創造しくださった事を認めます。あなたがふさわしいとご覧になるとおり、あなたがお用いになるために、どうぞ、私のいのちと、私の才能と能力のすべてを、あなたの祭壇に置くように私を助けてください。私は、あなたが私の人生のために神聖なご計画を定められたことを認め、そのご計画が私の人生において実行されるために、あなたに完全にゆだねたいと強く望みます。十字架の完了したみ業の力によって、上昇し、私が成り得る最も偉大な神になろうとする、すべての私の罪に穢れた、肉の強い願望を、どうぞ、殺してください。私は、私の救い主の十字架が、私の持つあらゆる利己的な夢、目標、また、野心を破壊するために、私の人生において働く自由な支配を持ちたいと、強く望んでいます。私は、私の中にいる古い人、私の肉的な、罪に穢れた性質を全く殺すことを、私の人生の中で完全な働きをしてくれるように十字架に、ゆだねます。私は、この人生において私のために、あなたが定められた所で減少する事を強く望みます。また、キリストが私の人生において完全に増加してくださる事を強く望みます。十字架の苦痛に満ちたみ業に耐えるために、どうぞ、私に恵みをお与えください。それから軽減される事を決して望まないように私を助けてください。私の創造主よ、あなたに、キリストの十字架が、非常に喜んでいただくものとするために、それが私の人生に必要な苦痛に満ちたみ業する事を強く望むように私を助けてください。私は、キリストの十字架が、すべての他の人たちの人生に、その完全なみ業を行なうことを、この方々も強く望むようになる事を祈ります。アーメン。』

 

 

『上昇』の罪に打ち勝つ、神がお与えになられた勝利は、私たちのクリスチャン生活の中で持つ非常に重要な事です。なぜなら、『上昇』は、私たちが私たちの創造者に対して、反逆する時にするまさに最初の事だからです。その勝利を得た後、その時、神は、私たちを、ご自身が私たち各々のために選ぶ方法で、昇進させます。『というのは、昇進は、東からも、西からも、南からも、来ないからです。しかし、神は審判者ですから、ある者を(高い地位から)引き降ろし、また、ある者を高く上げます。』(詩篇第75篇6,7節)6節で、昇進が来ない所を私たちに語ったことに際して、北が、言及されなかった唯一の方角です。7節は、神が、昇進か、または、降格をする方であると明らかに、私たちに語っています。そして、聖書のいくつかの節は、神の住居が『北』の方角にある、と示しています。『北方の、偉大な王の都、シオンの山』(詩篇第48篇2節) ルシファーが宣言した時、『私は至高者のようになろう。』彼はまた、『私は、北方の、集会の山に座ろう。』(イザヤ書第14章13節)と、言いました。

 私たちは、減少する事を強く望んで、どの昇進もすべて、私たちの創造者によって全くなされるままにしなければなりません私たちの低く遜(へりくだ)った人生は、最大限に、私たちの創造者に栄光を現します。それで、もしそれが、『昇進』であることをあなたが全く考えることなしで、この地上の全生涯のためのあなたの地所であるならば、可能な限りの最大の昇進としてそれを認め、あなたのものであるそのすばらしい地所を喜んでください。あなたがたすべての中で一番小さい者こそ、大きいのです。(ルカによる福音書第9章48節)をいつも覚えていてください。神が、私たち信者のすべてを、私たちがなり得る『一番小さい』人になることであるこの本当の偉大さのために、真剣に努力するように助けてください。『私は減少しなければなりません。』

 『そして、主はヨシュアに言われた。この日、わたしは、全イスラエルの見ている前であなたを大いなる者にすることを始める。それは、わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、彼らが知るためである。』(ヨシュア記第3章7節)神は、ある信者を指導者と権威の地位に、明確に大いなる者にし昇進させられます。神がそのようになさる時、信者は、それが特権と栄光を行なうよりも多くの責任を持つものであることをいつも記憶して、へりくだって、神のくださる昇進を受け入れなければなりません。もし神の昇進が、この人生の中で、私たちに来るならば、また、来る時、私たちは、自分の罪に穢れた誇りを満足させないために、自分を打ちのめさなければなりません。

 

『天のお父さま、私が自分の力によって、上昇しようとしないように、どうぞ、助けてください。 どうぞ、私自身を昇進させないように、私を助けてください。あなたがどのような方法でも、自分を昇進させることを選ばれるならば、また、選ばれた時には、へりくだって、それを受け入れ、私の人生において、罪に穢れた誇りの源にさせないように、どうぞ、私を助けてください。どのような昇進も共に帯びている重い責任をいつも記憶するように、どうぞ、私を助けてください。あなたが私に与える事をお選びになるどのような昇進についても、あなたを失望させるか、または、悲しませるかしないように、どうぞ私を助けてください。私はこの事を他のキリスト信者のすべてのためにも祈ります。アーメン』

 

 

「減少」

『彼は増加しなければなりません、しかし、私は減少しなければなりません。』(ヨハネによる福音書第3章30節)それはバプテスマのヨハネのことばです。 彼は主イエス・キリストをよく知っていました。ヨハネは、イエスこそ大いなる栄光を持つまことの神であると知っていました。それゆえに、ヨハネは、自分の人生の中に、キリストの必要が増加していくのを知っていました。ヨハネもまた、自分の人生の中に、増加するように、部屋をキリストに与えるために、自分が減少しなければならないことを知っていました。あなたと私は、大いなる栄光を持つこの王を仰ぎ見る必要があります。私たちは、神のことばである聖書を完全に研究することによって、祈りの中で神に毎日話すことによって、また、私たちがこの地上で人生を生きるとき、神と共に毎日歩むことによって、これをすることができます。私たちは、私たちの創造者は何という偉大な神であるかを知るようになります。そしてそれは、私たちが、神が私たちの中に増加し、私たちが生きる、へりくだって、低く生きる生活から多くの栄光を受けるために、減少することを強く望むことに、当然に続いて行くのです。「私は減少しなければなりません」は、私たち各々のための毎日の祈りであるべきです。

ゼカリヤ書第99節は、この地上におられる間、『低く』あられた方としてイエス王を記述しています。私たちは主イエスのそのような模範と、私たちがへりくだり、低くあるようにとの聖書の多くのご命令に従うべきです。そのようにして、私たちは最大に主に栄光を現すのです。もしあなたがこの地上に住んでいる間『最も小さい』人であろうとすれば、そのとき、あなたは、天国で、永遠に、最も偉大な人間であることによって、そのことにゆえに報いを受けるのです。もし、アダム以来、すべての人々の間で『最も小さい』者あることを達成できたとはありそうにない、とあなたが思うならば、そのときは、現代の世代に『最も小さい』者であることは、あまり難しくはないはずです。それは、今日では事実上全く競争がないからです。あなたの周りのほとんど誰もが、上昇して、最も偉大になるために自分の最善を尽くしているのです。神があなたと私を減少したいと強く望むように助けてください。『私は減少しなければなりません。』

 

もしあなたの中に全く、思いやりと、同情をわずかでももっておられるならば、あなたの心は、この惑星上で毎日続く多くの苦しみと悪い行ないへの悲しみに、しばしば引き裂かれるはずです。多分、あなたは、『人類がどこか間違っているところをすべて、私が治療できればなあ。』『もし私が神だったら、私は、きっと悪くなった所を直して、それを正しくするだろう。』とそのような思いをもたれたことがあったかも知れません。もしあなたが今までそれと似たような事を思われたとしたら、私はそのあなたのために、良いニュースと悪いニュースを持っています。その良いニュースは、一人の神であることです。そして、その悪いニュースは、神であるあなたが、正確に、すべての問題を起こす者であることです。 私たちのほとんどすべては、上昇して、できるだけ一番偉大な神になるために努力したことがあります。そして、正確に言うと、それが、人類に惨めさをもたらしたものなのです。それは、私たちの創造者への反逆のとき、私たちがする最初のことだからです。 もし私たちが正しい事をして、私たちの創造者である神を喜ばしたいと思われるならば、それが、私たちの人生で取り扱わなければならない最も根本的で、また、最も重要なことなのです。どうか、神が私たちのすべてにこの事を理解する知恵を授けてくださいますように。また、どうか、神が私たちに、本当に減少したいという燃えるような強い望みを授けてくださいますように。『私は減少しなければなりません。』 バプテスマのヨハネは、この問題の選択肢を全く持っていなかったけれども、減少することは、彼にとって必須なことである、と信じました。どうか、神が、私たち各々が、自分もまた減少しなければならないことを十分に理解するように助けてくださいますように。

アーメン、アーメン!

 

『上昇』の罪が、被造物が創造者である神に対して反逆した時の最初で、かつ最も基礎的なステップであるので、私たちが、神に対する罪と反逆である、それが何であるかのために、この行為を正確に認めることは、恐ろしく重要なことです。私たちはその罪を非常に愛しているので、神が、私たちの人生で行なうようにと、私たちを創造されたとおりなるために、私たちはそれを追いやりたいと非常に強く望みます。そのような固定した思考は、私たちを霊性において、厳しく不利な条件を与え、私たちが創造者に対して反逆する最初のたいへん基本的な、また、非常に一般的な方法を扱うことを防止します。どうか、神が私たちに、この問題に関する如何なる霊の盲目をも防ぐために、鋭敏な識別力を授けてくださいますように。 そして、私たち各々が、自分のためにお定めになった正確な場所にすえてくださる創造者に完全に自分をゆだねますように。『私は減少しなければなりません。』

 

 

『すべての人類の創造者、また、聖なる、義なる最高審判者である、天にいます全能の神さま、私は、あなたがすべてをご存知のように、上昇して、できるだけ偉大な被造物になろうとする私の強い望みをあなたに認めて、告白します。あなたおひとりだけが、上昇しようとの私の強い願望の範囲を知っておられます。 私は、上昇しようというこの私の強い願望が如何に間違っているかを、今、私に教えてくださいますようにお願いします。 あなたの聖なる、純粋な御目に、私がいかに罪に穢れているかを、示してください。あなたが、この人生において私のために定めてくださった者になるために、『上昇』の罪を信じないように、私を救ってください。あなたの祝福が私の上にあるために、『上昇』に私が成功するのを信じないように、私を救ってください。上昇しようとの、この強い願望と関連したすべての間違いと罪とを悔い改めた心を、どうぞ私の内側に創造してください。神を喜ばせないこの願望と関係したどのようなものでも捨てようとする思いと意志とを、どうぞ、私にお与えください。私の創造者であるあなたに喜びをもたらしたいという誠実な願望をどうぞ私にお与えください。あなたはその目的のために私を創造してくださったのですから。私は、あなたに、私が減少しなければならないことを告白いたします。それで、あなたの強力な御力によって、そうするように、どうぞ、私を助けてください。今すぐ来て、あなたが私の居るように定められた場所に居たいという、純粋で、神が与えられた強い願望を、私の内側に創造してください。その場所がどこで、また、何であるかをどうぞ私にはっきりと教えてください。そして、あなたの大いなる力によって、私自身の利己的な意志と、また、私とあなたが私のために定めてくださった地位との間にあるすべての他の障害にどうぞ打ち勝ってください。悪魔、罪、悪、および私の肉の性質から来る私の存在の中にあるすべてをどうぞ破壊してください。あなたの御力によって、あなたが私に居るようにと定められた場所に私を連れてきてください。私は、自分がそれらの事をするには無力ですので、あなたが私にこれらの事をしてくださるように呼び求めます。ですから、どうぞ、私を哀れみ、天国から私のことばを聞いて、私のこの祈りに答えてください。私は、あなたがリチャード兄弟を減少するように助けてくださいますように兄弟のために祈ります。私は、すべての他の人々が減少する必要があることに気づくように祈ります。また、この方々がそうする時、あなたの助けを求めるように、私は祈ります。私のこの祈りを来て答えてくださいましたことを、天のお父さま、あなたに感謝します。アーメン。』

 

 

 

(これで被造物対創造者の第3章を終わります)